父という人を、私は長い間理解できなかった Rawfood道 ― 命を讃えて生きる。#3

 前回、「命を讃える」という言葉の原点をたどり、
私たちの両親が生きた時代について書きました。

今日は、もう少し個人的な話をしたいと思います。

私の父についてです。


子どもの私に見えていた父

私たち子どもにとって、
父は理解することの難しい存在でした。

父は酒に酔い、
母に暴力を振るうことがありました。

子どもだった私たちには、
なぜそんなことが起こるのか理解できません。

なぜ?

これが父なのか。
これが大人なのか。
これが人間なのか。

家庭とは本来、
子どもが安心していられる場所のはずです。

けれど私たちにとって、
家庭は必ずしもそうではありませんでした。

その体験が、
その後の人生に小さくない影を残したことは確かです。


やがて、父から離れた

大人になるにつれて、
私たち子どもは父のもとを離れていきました。

故郷からも離れました。

そして父は、
少しずつ多くのものを失っていきました。

裸一貫から働き、
人とのつながりの中で懸命に生きてきた父。

しかし晩年、
その周りにはかつてのような家族の姿はありませんでした。

では、私たちは父に何をしたのか。

振り返ると、

何もしなかった。

形としての関わりはあったかもしれません。

けれど、
心から父を思いやる気持ちは、
当時の私には湧いてきませんでした。

そして、そのこともまた、
私の心の奥に残りました。


人は、一つの姿だけではない

父が亡くなって何十年も経ってから、
私は少しずつ違う問いを持つようになりました。

あの父にも、
子どもの頃があった。

まだ何者でもなかった少年がいた。
どんな景色を見ていたのだろう。
何が嬉しかったのだろう。
何が怖かったのだろう。
誰かに抱きしめてもらったことはあったのだろうか。
何を夢見ていたのだろう。

もちろん、想像したからといって、
過去に起こったことがなくなるわけではありません。

傷ついた事実を、
正当化することでもありません。

ただ、

私の記憶の中にいる「父」だけが、
父という人間のすべてではなかった。

そう気づき始めたのです。


「何をした人か」だけで、人を見ていないだろうか

私たちは時として、
人を一つの出来事で固定してしまいます。

「あの人はこういう人。」

「あの人は私にこうした。」

もちろん、
自分を守るために距離を置くことが必要なこともあります。

それでも、

その人の行為と、
その人の命そのものは、

同じなのだろうか。

そんな問いが、
私の中に生まれ始めました。

それが後に、
私にとって大きな意味を持つことになります。

今日の問い

私は、過去の記憶だけで見続けている人はいないだろうか。

答えを出す必要はありません。

ただ問いを持つ。

それだけで、
人生の中に小さな余白が生まれることがあります。

◆「命を讃える」は何処からうまれたのか?

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