前回、「命を讃える」という言葉の原点をたどり、
私たちの両親が生きた時代について書きました。
今日は、もう少し個人的な話をしたいと思います。
私の父についてです。
私たち子どもにとって、
父は理解することの難しい存在でした。
父は酒に酔い、
母に暴力を振るうことがありました。
子どもだった私たちには、
なぜそんなことが起こるのか理解できません。
なぜ?
これが父なのか。
これが大人なのか。
これが人間なのか。
家庭とは本来、
子どもが安心していられる場所のはずです。
けれど私たちにとって、
家庭は必ずしもそうではありませんでした。
その体験が、
その後の人生に小さくない影を残したことは確かです。
大人になるにつれて、
私たち子どもは父のもとを離れていきました。
故郷からも離れました。
そして父は、
少しずつ多くのものを失っていきました。
裸一貫から働き、
人とのつながりの中で懸命に生きてきた父。
しかし晩年、
その周りにはかつてのような家族の姿はありませんでした。
では、私たちは父に何をしたのか。
振り返ると、
何もしなかった。
形としての関わりはあったかもしれません。
けれど、
心から父を思いやる気持ちは、
当時の私には湧いてきませんでした。
そして、そのこともまた、
私の心の奥に残りました。
父が亡くなって何十年も経ってから、
私は少しずつ違う問いを持つようになりました。
あの父にも、
子どもの頃があった。
まだ何者でもなかった少年がいた。
どんな景色を見ていたのだろう。
何が嬉しかったのだろう。
何が怖かったのだろう。
誰かに抱きしめてもらったことはあったのだろうか。
何を夢見ていたのだろう。
もちろん、想像したからといって、
過去に起こったことがなくなるわけではありません。
傷ついた事実を、
正当化することでもありません。
ただ、
私の記憶の中にいる「父」だけが、
父という人間のすべてではなかった。
そう気づき始めたのです。
私たちは時として、
人を一つの出来事で固定してしまいます。
「あの人はこういう人。」
「あの人は私にこうした。」
もちろん、
自分を守るために距離を置くことが必要なこともあります。
それでも、
その人の行為と、
その人の命そのものは、
同じなのだろうか。
そんな問いが、
私の中に生まれ始めました。
それが後に、
私にとって大きな意味を持つことになります。
私は、過去の記憶だけで見続けている人はいないだろうか。
答えを出す必要はありません。
ただ問いを持つ。
それだけで、
人生の中に小さな余白が生まれることがあります。