茶道、華道、書道、柔道、剣道、弓道。
日本には、不思議なくらい
「道」という言葉のついた文化があります。
なぜ「茶術」ではなく茶道、「柔術」から柔道へと、
日本人はそこに「道」という言葉を重ねてきたのでしょう。
そこには、何かが上手になることだけを、目的にしない。
という日本独特の考え方が見えてきます。
もちろん、どの「道」にも技術があります。
書道なら、筆の使い方。
茶道なら、お茶を点てる所作。
柔道なら、技や身体の使い方。
最初は「できるようになりたい」と思って練習します。
けれど、同じことを何度も繰り返していると、
いつしか技術だけではないものが見えてきます。
焦っている自分。
うまく見せようとしている自分。
できないことに苛立つ自分。
反対に、
何も考えず自然に身体が動く瞬間もある。
つまり、技を磨いているようで、実は、自分自身と出会っている。
それが「道」の大切な部分なのかもしれません。
これは単なる精神論でもありません。
日本の武道における「稽古」を研究した論文では、武道の稽古は単なる身体技能の獲得ではなく、身体を動かすことを通して意識を自分の内側へ向け、自らの心を見つめる文化的な営みを含んでいると論じられています。
また、武道・芸道・禅の「達人」を扱った研究でも、「知識や技術を身につける学び」と「自分自身を学ぶための修練」は区別して考えられています。
海外の日本哲学研究でも、茶道、華道、書道、弓道などに共通する「道(dō / michi)」は、単なる技能を表す言葉ではなく、哲学的・精神的な方向性を持った実践として説明されています。
昔の人たちが経験的に育んできた「道」という文化には、
何かを学ぶことを通して、自分自身を学んでいく。
そんな知恵があったのでしょう。
料理が上手になる。
栄養について詳しくなる。
健康的な食事ができるようになる。
もちろん、それも素晴らしいことです。
でも、食べることを「道」として考えてみると、少し景色が変わります。
今日は身体が何を欲しているだろう。
なぜ私は、今これを食べたいのだろう。
食べたあと、身体はどう感じているだろう。
旬の野菜を手にしたとき、
その香りや色をちゃんと感じているだろうか。
正解を覚えるのではなく、
毎日の食を通して、
少しずつ自分を知っていく。
できない日があってもいい。
また明日の食卓から始めればいい。
「これで完成」という日がないから、
「道」なのかもしれません。
昨日より少し気づく。
やってみる。
失敗する。
また気づく。
その繰り返しの中で、
技術だけではなく、
自分自身も少しずつ変わっていく。
だから「道」とは、
上手になるためだけのものではなく、
自分を知り、自分を育てていく歩み。
なのではないでしょうか。
食べることもまた、
毎日続いていく営みです。
だとしたら、
いつもの食卓もまた、
自分自身を知るための小さな「道場」になるのかもしれません。
あなたは今日の食事から、
どんな自分に出会いましたか?
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