「お母さんは、何になりたかったの?」
就職活動に悩む息子・悠人の、何気ない一言。
その問いに、48歳の美咲はすぐに答えることができませんでした。
家族のために働き、子どもたちを育て、毎日の暮らしを支えてきた美咲。
決して、不幸だったわけではありません。
むしろ、家族とともに過ごしてきた日々には、たくさんの喜びがありました。
けれど、悠人から問いかけられたとき、ふと気づいたのです。
「私は、いつから自分の夢を考えなくなったのだろう?」
今回の第9話は、そんな美咲が、自分自身の人生の原点に出会う物語です。
美咲には、3歳年下の弟がいました。
弟は幼い頃から体が弱く、母親はいつも弟の世話に追われていました。
美咲は、まだ小さな女の子でした。
本当は、お母さんに抱っこしてほしかった。
もっと甘えたかった。
「私のことも見て」と言いたかった。
でも、お母さんは忙しそうでした。
「お姉ちゃんなんだから、いい子にしてね」
そんな言葉を聞きながら、美咲は少しずつ、自分の気持ちを我慢するようになりました。
母親が美咲を愛していなかったわけではありません。
母親もまた、精いっぱい子どもたちを育てていたのです。
けれど、幼い美咲には、まだそんな事情を理解することはできませんでした。
そして、ある日、美咲は一枚の絵を描きます。
白衣を着た、お医者さんの絵。
「私、お医者さんになる」
「そしたら、お母さんを助けられるもん」
それが、美咲の夢の始まりでした。
ここで、少し考えてみたいことがあります。
美咲が本当に願っていたのは、医師という職業に就くことだけだったのでしょうか。
もちろん、医師になることは美咲の大切な夢でした。
でも、その夢の奥には、もう一つの願いがあったのかもしれません。
大切な人を助けたい。
お母さんに笑っていてほしい。
誰かの役に立てる自分でありたい。
それは、幼い美咲の中から生まれた、純粋な願いだったのです。
高校生になった美咲は、医師になる夢に向かって一生懸命勉強しました。
しかし、希望する大学への進学はかなわず、医師になる道を断念します。
「私には、無理だったんだ……」
そのとき、美咲は大きな挫折を経験しました。
けれど、ここで注目したいのは、大学受験に失敗したという出来事そのものではありません。
その出来事から、美咲が自分自身について、何を決めてしまったのか。
ということです。
「私は、勉強ができない」
「私には、才能がない」
「私には、大したことはできない」
一つの経験から生まれた言葉が、いつの間にか自分自身の評価になってしまうことがあります。
心理学では、自分の能力や価値について抱く考えを「自己概念」と呼びます。
また、心理学者アルバート・バンデューラが提唱した「自己効力感」は、自分がある行動を実行できるという見通しや信念を指します。
過去の成功や失敗は、こうした自分への見方に影響することがあります。
ただし、失敗を経験したからといって、必ず自己効力感が低くなるわけではありません。
大切なのは、その経験をどう受け止め、次の行動につなげていくかということです。
美咲の場合、医師になれなかったという一つの出来事が、いつの間にか「私には無理」という、人生全体に広がる言葉になっていたのかもしれません。
そして、その言葉は24歳になっても残っていました。
職場で同僚を助け、感謝される美咲。
「美咲さん、いつもありがとう!」
「いえいえ、私にできることなら」
でも、心の中では、こう思っていました。
「私には、これくらいしかできないけど……」
誰かにそう言われたわけではありません。
美咲自身が、自分に与えていた言葉だったのです。
美咲の人生は、決して特別なものではありません。
進学、就職、結婚、出産、子育て、親の介護。
人生には、さまざまな転機があります。
特に日本では、女性の就業継続や家庭内の役割分担が長年の社会的課題となってきました。
総務省の「令和3年社会生活基本調査」では、6歳未満の子どもがいる夫婦の家事関連時間について、妻が1日平均7時間28分、夫が1時間54分という結果が示されています。
家事や育児に使う時間には、大きな男女差があったのです。
もちろん、家庭の形も働き方も多様になっています。
しかし、家庭の責任を担いながら、自分自身の将来について考える時間を十分に持てない人がいることも、見過ごせない現実です。
美咲も、そんな一人だったのかもしれません。
結婚し、子どもを育て、家族を支えてきました。
その人生は、かけがえのないものです。
ただ、家族のために生きることと、自分自身の人生を生きることは、どちらか一方を選ばなければならないのでしょうか。
誰かを大切にすることと、自分自身を大切にすることは、両立できるはずです。
そして、その可能性を探求することは、人生のどの段階からでも始められるのではないでしょうか。
ここで、幼い頃の美咲に戻ってみましょう。
弟の世話に忙しい母親を見ながら、美咲は「お姉ちゃんだから、我慢しなくちゃ」と思うようになりました。
お母さんに褒められたい。
お母さんを困らせたくない。
自分ができることは、自分でやらなくちゃ。
そうして、美咲は面倒見のよい、優しい女性に成長しました。
でも、その優しさの中に、いつの間にか別のものが混ざっていたのかもしれません。
「私がやらなくちゃ、いけない」
それは、誰かを助けたいという自由な願いから生まれた行動でしょうか。
それとも、そうしなければ自分には価値がない、という思いから生まれた行動でしょうか。
同じように人を助ける行為でも、その内側にあるものは違うかもしれません。
JLBAでは、こうした自分でも気づかないうちに繰り返している反応や振る舞いを、探求すべき「アクト」として捉えています。
アクトは、必ずしも悪いものではありません。
かつての自分が、周囲の環境の中で身につけた生き方でもあります。
けれど、その生き方が今の自分の可能性を狭めているとしたら、どうでしょう。
美咲は、これからそのことに少しずつ気づいていきます。
それは、お母さんを責めることでも、過去の自分を否定することでもありません。
自分がどのように生きてきたのかを知り、これからどう生きるかを自分自身で選び直すこと。
そこに、新しい人生の入口があるのだと思います。
今回の物語の最後に、心の中のもう一人の美咲、源美咲が問いかけます。
「お医者さんになれなかったら、夢は終わりなの?」
美咲は戸惑います。
「でも……もう48歳だし……」
すると、源美咲は言います。
「48歳だから、何?」
この問いには、大切な意味があります。
48歳という年齢を、なかったことにするわけではありません。
年齢によって、体力も、生活環境も、担っている責任も違います。
できること、難しいこともあるでしょう。
しかし、それらの条件が、その人の未来のすべてを決めるのでしょうか。
医師になる夢をあきらめた美咲。
だからといって、人を助けたいという願いまであきらめる必要があるのでしょうか。
もしかしたら、その願いは、医師とは違う形で実現できるかもしれません。
あるいは、今まで考えたこともなかった、新しい願いが生まれるかもしれません。
ここで大切なのは、過去の夢を取り戻すことだけではありません。
今の自分が、未来に向かって新しい言葉を創り、その言葉から行動を始めること。
JLBAが大切にしている「BeYou ― 自分自身を生きる」とは、過去の自分に戻ることではありません。今ここから、自分自身の人生を創作していくことなのです。
私たちは、よくこんな言葉を使います。
「自分のやりたいことが見つからない」
「私には夢がない」
「何をしたらいいのかわからない」
でも、夢はどこかに隠れていて、探し当てるのを待っているものだけなのでしょうか。
自分の夢がまだわからなくても、誰かと話してみる。
興味のあることを少し学んでみる。
今まで経験したことのない場所へ行ってみる。
小さな行動を起こすことで、それまで想像もしなかった可能性に出会うことがあります。
そして、その経験から、新しい願いや目標が生まれることもあるでしょう。
大切なのは、最初から正しい答えを持っていることではありません。
まだ答えがなくても、自分自身の人生に参加し続けること。
48歳の美咲は、まだ新しい夢を見つけていません。
これから迷うことも、立ち止まることもあるでしょう。
それでも、美咲は一つの問いを持ち始めました。
「私は、これからどう生きたいのだろう?」
この問いから、美咲の新しい人生が動き始めようとしています。
最後に、読者の皆さんにも、3つの問いをお届けします。
問い1
子どもの頃、あなたは何になりたかったですか?
その夢の奥には、どんな願いがありましたか?
問い2
これまでの人生で、「私には無理」「もう遅い」と、自分自身に与えてきた言葉はありませんか?その言葉は、今も本当にあなたの未来を決めるものでしょうか?
問い3
もし、これまでの経験や年齢だけで未来を決めなくてもよいとしたら、あなたはこれから何を創り出したいですか?
すぐに答えが出なくても構いません。
まずは、問いを持つことから始めてみてください。
そして、今日できる小さな一歩を、自分で選んでみませんか。
「私がやらなくちゃ、はいつから?」
家族のために、いつも一生懸命な美咲。
誰かが困っていると、つい自分が動いてしまう。
頼まれると、なかなか断れない。
そんな美咲の日常に、ある小さな出来事が起こります。
そして美咲は、自分でも気づかなかった生き方の癖に出会うことになります。
それは、5歳の頃から続いていた、もう一つの物語でした。
どんな人生がやってこようとも、その人生は私の人生だと言える勇気と決意。
美咲の挑戦は、まだ始まったばかりです。
BeYou ― 私の人生を、私が創る。
Living Beauty Stories
日本リビングビューティー協会(JLBA)
参考資料
総務省統計局「令和3年社会生活基本調査」生活時間に関する結果
Albert Bandura (1977), Self-efficacy: Toward a Unifying Theory of Behavioral Change, Psychological Review, 84(2), 191–215
内閣府「男女共同参画白書」各年版(仕事と家庭生活の両立、無償労働に関する分析)